かくしごと

アニメ版を最終話まで見た。原作漫画は未読。

久米田康治特有の「悪意と照れ隠しと矜持がないまぜになったサービス精神」によって、従来のファンを満足させる面を持ちつつも新たな受け手への間口も確保されていたと感じる。また、久米田の創作観・多面的な人生観を垣間見ることができたのが良かった。

久米田作品について語られる時はどうしても久米田本人の作家性......というよりパブリックイメージと結びつけて行われる事が多い。そして彼のファンはその度に自らの「久米田遍歴」と向き合うことになるが故、どうしても自分語りの要素が入り込んでくる。
かってに改蔵』が連載されていた頃、単行本巻末の自虐に満ちた文章と登場人物たちの作中での卑屈で常軌を逸した振る舞いを重ね、「これは分かってやってるから、ギャグだから」と思いながら斜に構えて「おッ今回も相変わらず病んでるねぇ!」と茶化し、最終回のあの放り出されたような結末で呆然とする......という流れを辿った自分のような「久米田ファン」は多数いたはずだ。
そしてその後の『さよなら絶望先生』で見せた成果――ネギま!のパロディという名目での魅力的で効率的なヒロイン達のキャラクターメイク、シャフトと組み大槻ケンヂを担ぎ出して独自のポジションを築き上げたアニメ版、前作に続いて用意周到な伏線から見事な着地をさせた最終回――を前に、それを結実させた作家としてのビジョンの明晰さに慄きながらも、その後の諸作にはそこまでの熱量を感じられずに時が流れ......
こうして書き記すだけでも結局自分の話をしているだけのような気がしてくるが、そんな中である意味久米田自身がメタな視点を含みながら「描く仕事」について描く=彼自らについて描く、とも言える作品が届けられた。

可久士の描いた作品が受け手だけでなく、可久士自身の人生にも結びついており、それを描くときに最もエネルギーが注ぎ込まれている......本人はそれよりも家族である姫の方を大事にしていると思っているが、決してそこに優劣があるわけではなく、実はそれらすべてが分かちがたい関係にあるということが作中で示されるわけだが、漫画家として長きに渡り活動してきた久米田の作品からそういった価値観を読み取る時、我々受け手は久米田の遍歴とそれを受け取ってきた自らの遍歴を重ね合わせて、積み重ねられてきた年月とそれがもたらしたものについて思いを馳せる......変わったものも変わらないものもあるだろう.....。とある作家とその作家性を通じてそういうことを感じるのは(余程独りよがりさを周囲に撒き散らすものでない限り)悪いことではないだろう。どんな形であれ、人生は進むのであり、それも悪いことではないんじゃないかというところにまで考えが至った。

色彩の豊かさ、相変わらずコメディ演技しっくりくるな〜な内田真礼、社会性とやらを一切無視しておりある意味痛快さに満ちた十丸院五月の徹底してやりたいようにやる姿勢、といった点が好きだったが、何はともあれ墨田羅砂だろう。あの突き放した態度とタメ口が魅惑的すぎて何なら彼女が目当ての一つであったことは否定できない。癖です(小池)。